【介護コラム】勝ち逃げー第10話ー

第10話

しばらくは、淡々とした日々が続いた。

目立って叱責されることもなければ、いつかのように会話が弾むようなこともなく、Iさんと私のやり取りは、とても事務的になっていた。
たったの一度ではあるが、心が通い合った(であろう)日の余韻は、まだしっかりと私の中に残っており、それだけに、この事務的な日々を打開する為の方法が何も浮かばず、ただその場で足踏みするだけの自分が、歯痒くて仕方なかった。

「なんとかしなければ」と思うほどに思考は混乱し、結局手も足も出せずに、逃げるように退室する。
「なんでIさんは私を出入り禁止にしないのだろう」その疑問ばかりがいつもついて回っていた。

ある日の朝のことである。
いつもどおりキーボックスから鍵を出し、開錠前に静かに深呼吸をして、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせ(この頃にはすっかり儀式化していた)、玄関を開けた。

2階にある本人の部屋に向かって「お早うございます、ヘルパーです」と声を掛ける。

何の返事もないのはいつものことなので、そのまま階段を上がっていくと、「ううう」という呻き声がした。「いつものこと」ではないことが起きていた。

コラム著者/佐近健之 (介護支援専門員・介護福祉士・社会福祉士)
東京都出身。介護現場経験を経て、現在は介護人材の教育を担当しています。
音楽好きのビール党です。
Illustrator/エム・コウノ